境内散策
【本堂】

明治44年(1911)再建立
明暦4年(1658)大本山・本圀寺(京都)第18世乗体院日運上人再奉開眼による
十界勧請大曼荼羅ご本尊、一塔両尊四菩薩像、宗祖日蓮大聖人尊像
等を奉安しております。
本堂内左側には鬼子母神堂、本堂内右側には祖師堂がございます。
鬼子母神堂には、延宝7年(1679)開眼の鬼子母尊神・十羅刹女像を奉安
祖師堂には、元治2年(1865)開眼の祖師像・六老僧像を奉安しております。
【神力稲荷大明神】

神力稲荷堂は、江戸時代に勧請されました。
商売繫盛・五穀豊穣 等を願って参拝者が絶えません。昭和61年再建立
【足ツボ増益寿命ロード】

足ツボ増益寿命ロードを歩き、稲荷様にお参りする事で心も体も健やかな日々を過ごして欲しいとの思いから令和元年に建立致しました。
大小様々な6つのブロックから構成され、「六根清浄」「六道を超える」等の願いが込められています。
老若男女問わず、多くの参拝者が訪れます。
夜は深夜12時頃まで、ライトアップしております。
【客殿】

寺務所、客間、庫裡などがあります。
書院内には、本多日生僧正筆山号大額をはじめ、雲山僧正などの墨跡が多数ございます。明治24年(1891)再建立。
【山門】

有栖川宮親王殿下御来山の為に建立され、以前は宮家御紋章を付していたと伝えられます。新発田藩主も山門を通過の折は、下馬されたと言われます。
江戸時代末頃に再建立されました。
【有栖川宮幟仁親王殿下御染筆扁額】
當山は、有栖川宮家祈願所のひとつでありました。
第八代幟仁(たかひと)親王殿下は幕末維新に参画され、國學院大學創立者でもあります。有栖川宮家第九代熾仁(たるひと)親王殿下は新政府総裁に就任。戊辰戦争では、東征大総督として御来越され、当山を御宿舎に当てられました。
扁額の『修理固成(しゅりこせい)』は、「この国土をしっかりと作り固め、秩序立てて確かなものにしていくこと」の意。
【鏡山園】

沼垂盆唄に「沼垂ヤ~ア~ 真善寺の裏路地見やれ 獅子に牡丹に孔雀の鳥よ近江八景の鏡山」と唄われた鏡山園。
かつては広く眺めが良く、港に出入りする白帆がよく見えたそうです。
大河である信濃川河口に栄えた、新潟湊・沼垂湊の今昔を長く見続けてきた老灯篭。明治期に入り、河口埋め立て等により湊は沖合いに展開し、當山からは展望できなくなりました。
また、當山墓地整備事業等にもより、庭園は狭められ、今はわずかを残すのみとなってしまいました。しかし、これからも、老灯篭は沼垂を末永く見続けていくことでしょう。
※鏡山園は非公開の為、立ち入りは出来ません。

【奥客殿】

鏡山園内にあり、茶室等があります。
日蓮聖人・立教開宗750年慶讃事業として、檀信徒の丹誠により、
平成4年再建。
【義人 善松上人の墓】

江戸時代、沼垂(新発田藩・外様大名〈5万石→幕末には10万石〉)と
新潟(長岡藩・譜代大名〈7万4千石)は、信濃川を挟み、湊の利害を異にし、7回もの訴訟沙汰がありました。
しかし、沼垂町はことごとく敗訴したと伝えられます。
これにより、北前船等の権利は新潟(長岡藩)の独占となり、沼垂(新発田藩)はわずかに年貢米の積み出し等を行う程度であったと伝えられます。(新潟市史・沼垂定住三百年誌)
第1回 延宝 9年(1681)
第2回 元禄12年(1699)
第3回 享保12年(1727)
第4回 延享 4年(1747)
第5回 文化 元年(1804)
第6回 文化 3年(1806)
第7回 文政 8年(1825)
橋本善松(22歳)は、第6回訴訟(文化3年・1806)での敗訴に義憤し、同士を誘い暗闇に乗じて新潟の船舶の綱を切断するなどの暴挙を敢行。後に捕らえられ、9年間新発田で在牢の身となります。
在牢中、深く懺悔し紙撚で『鬼子母神像』を作り、日夜信心を怠らなかったといわれます。赦免後、益々法華経・唱題修行が盛んとなり、當山の
毎月7日の鬼子母神逮夜法要に参篭修行したといわれます。
ついには、天保4年(1833)に諸国を浄財行脚し、千ヶ寺参り・佐渡巡拝者の為の無料宿泊所を西竜ヶ島に建設。
(日蓮宗の鬼子母神は、鬼の字の´〈角〉は付きません。
→鬼子母神は、人の子供をさらっていたが、釈迦により自分の子を隠され、始めて我が子を失った母親の気持ちを理解・懺悔し、以後は善神と成ることを誓い、角を隠した為。
→法華経行者の守護。尚、文字がなかったので普通の〈鬼〉文字を使用、ご寛容ください)
この貴徳により誰言うともなく、善松上人と呼ばれるようになったという。
【境内の四季】





